バルーンスマイリスト 大竹由美子オフィシャルサイト

大竹由美子 プロフィール

yumiko-02当時4歳の長男が急性リンパ性白血病を発病。1年半の闘病生活を送り完治したかに見えたが、6歳のときに再発。
以降、4年に及ぶ闘病生活を送る。
2007年、長男逝去。
2008年、特定非営利活動法人ぷくぷくばるーんを設立。当時の主治医などを役員に迎え、元患者家族の仲間と共に活動を始めた。

現在7つの病院の小児病棟へ定期的に訪問。訪問回数は7年間で約550回を数え、延べ人数約4,000名の子どもたちとふれ合う。また、約600名のボランティアへの指導も行った。

2011年に立ち上げたフラフィバルーンとしてバルーンに携わる仕事、ぷくぷくばるーんとして小児病棟の遊びのボランティアの2足のわらじの他、2013年より愛知淑徳大学「ライフデザイン」講師としても活動。

息子との闘病生活、その後のNPO活動、多くの人との出会いから、「笑顔」の大きなパワーを感じ、「笑顔のチカラ~幸せ5原則を伝え続けること」が人生のテーマとなった。

そしていま、自らが笑顔の達人であるバルーンスマイリストとして、笑顔を広げる仲間であるバルーンスマイリストの養成講座、大切な人を笑顔にするためのバルーン教室「バルーンdeスマイル」講座やその他バルーンを使ったスマイルコミュニケーションセミナーを開催。

また講演では、息子との闘病生活や病院での活動、ボランティアへの指導経験を基に「笑顔のコミュニケーション術」や「いのち」をテーマとし、笑顔になることの大切さを伝え、日々笑顔の連鎖を広げ続けている。

天使が降りてきた~長男、喜大誕生

ごく普通の家庭に育った由美子は祖父母、両親と妹という家庭で明るくごく普通に育つ。
短大を卒業しIT関連会社へ就職。そして25歳で結婚という、いたって平凡な人生を送っていた。

25歳で結婚、翌年1996年2月12日の午前2時12分、3,322gで長男・喜大(よしひろ)が誕生。
まるまるとした可愛い初孫の誕生に、両親は「天使が降りてきた」と言い、よっくんと呼んで可愛がった。

突然奈落の底へ

喜大が3歳の時に離婚、その後実家で未来明るい新しい生活が始まっていたが、喜大4歳の時に急性リンパ性白血病を発病。
地元多治見市の病院で半年間の入院生活が始まった。
突然目の前に立ちはだかった「息子の闘病」。病院のベッドで眠る我が子を前に、涙とともに「絶対に死なせない」と決意。

その後、一旦完解(がん細胞が、見かけ上消滅した状態)になり保育園に復帰するも、1年生の夏に再発。名古屋第一赤十字病院へ、骨髄移植のために入院。
最初の臍帯血移植がうまくいかず、急きょ母である由美子からの型がマッチングしない骨髄を移植。移植は成功したものの、喜大の身体はボロボロに。ここから長い長い入院生活が始まった。

先の見えない闘病生活~バルーンとの出会い

骨髄移植のためのクリーンルーム、個室を出て大部屋で過ごす入院生活は、男の子も多く楽しかった。
毎日泣いて暮らしていられない。しかし、骨髄移植後の身体の状態はかなり悪く、肝臓の機能は落ちて黄色い肌の喜大だったが、それでも毎日を一生懸命生きていた。

必ずこの子を元いた場所へ帰す。普通の小学生として、普通に子どもらしく過ごさせたい。
その一心で毎日を過ごしていたある日、花壇の花を見て綺麗だと思えなかった自分に、愕然とした。

そんな時、お見舞いで頂いたヘリウムガスで浮くミッキーのバルーン。空調に揺れるバルーンを見ているうちに、自分の固まった心が解けていく感覚を覚えた。
その後夕陽を見ていた時に、「人を癒す、このバルーンの感覚が、世の中には必要だ!」と、突然全身に稲妻が走った。
そして、病院からバルーン教室に通い、小児病棟をバルーンでいっぱいにするうち、自分も、周りの人たちもみな笑顔になっていった。

夢にまでみた「普通の日々」

骨髄移植から4年が経とうとしていたある日、主治医から「生体肝移植」をしなければ、喜大の肝臓はもう限界だという説明を受ける。
そして、春になろうとするまだ肌寒い頃、名古屋第一赤十字病院から京都大学病院へ親子二人転院。
実家から駆け付けた母が付き添う中、由美子から喜大へ、生体肝移植が行われた。
肝臓の移植後は、みるみるうちに肌が白くなり、表情豊かな、まだ発病前の、子どもらしい喜大に戻っていた。

そして待ちに待った退院。この日のために今まで親子で頑張ってきた。夢のように輝いた日々。
地元の小学校の5年生として、普通の毎日を送る。
普通に朝起きて、普通に学校に行く。普通に友達と過ごし、普通に宿題をして。

この普通の生活をどれだけ夢見てきたことか。
毎日が楽しく、幸せであった。

天使は空へ還っていった

毎日を大切に、幸せを噛みしめて過ごし、楽しかった修学旅行が終わったころ、喜大の身体に異変が起こり始めた。
骨髄移植の後遺症で、喜大の身体はもう限界にきていたのだ。
血管がぼろぼろになっていたことから狭心症の発作が起こり、心臓バイパス手術をうけた喜大は、再び第一日赤に入院することになった。
ICUに3か月入り、気管切開をして食べることも話すこともできなくなり、普通の生活に戻ることを前提としてのこれまで入院とは違う、頭のどこかで「死」を覚悟せねばならない入院であった。
そして12歳の誕生日を1か月後に控えた2007年1月5日、天使になった喜大は神様のもとへ還っていった。

ぷくぷくばるーんの誕生~

喜大が他界し、失意のどん底にいたものの、何かをしなければと浮かんだものは、「バルーン」。
喜大が入院中、自分の身体の底がゆるゆると溶けていった、あのバルーンの感覚。
みんなが私のバルーンで笑顔になってくれた、あの感動。

それまで細々と会場装飾などバルーンの仕事は受けていたものの、表立って誰かの役にたっていない。誰かの役に立ちたいというより、とにかく病院の子供たちのところへ飛んでいきたい。
私にできることはバルーンしかない。
「みんなを笑顔にできるバルーンのチカラを、病院で今頑張る子ども達のところへ届けたい。」

そして1年後の2008年1月、小児病棟の遊びのボランティア「特定非営利活動法人ぷくぷくばるーん」を立ち上げた。喜大の主治医、お世話になった方々の協力を得、そして一緒に闘病生活を支えあった仲間たちと手さぐりで始めたボランティア。

現在、愛知県内の7つの病院の小児病棟を定期的に訪問、ボランティアと一緒に、バルーンを子ども達や付き添うご家族と一緒に作って遊ぶ活動をしている。
約7年の活動で、のべ人数3,000名の子どもたち、そしてのべ600名のボランティアと子どもらしい楽しい時間を創っている。

バルーン三昧の日々

ぷくぷくばるーんを始めて3年目の2010年、今まで細々としてきたバルーンの仕事を、バルーン装飾やバルーンギフト作成、バルーン教室などを行う「フラフィバルーン」として本格的に始動。
ボランティア団体のぷくぷくばるーん、個人事業のフラフィバルーン
公私ともバルーン三昧の日々になった。

バルーンを通じて人と関わるうち、喜大をもっと笑顔で抱きしめてあげればよかった、目の前にいたときに、もっと笑顔を向けてあげればよかった、という後悔が大きくなっていった。
それは、「バルーンを通じて世の中に笑顔の重要性を広げたい」という強い想いになり、肩書をバルーンアーティストからバルーンスマイリスト®に変更。
2014年現在、バルーン装飾やバルーン教室などの他、バルーンスマイリストの養成講座を開催。
バルーンをツールに、目の前の大切な人を笑顔にし、笑顔の発信基地(スマイルスポット)になる人材を育成している。
そのほか、スマイルコミュニケーションや命を題材にした講演活動や、「笑顔の素敵な人」をリレーで紹介してもらう「スマイルキャラバン」を続けている。

スマイルコミュニケーション~みつけた「笑顔のチカラ」

今までの経験から身を以て感じていること。それは、笑顔のチカラ。
自分が笑顔でいること、相手に笑顔を向けることは、自分と相手の心をぎゅっと抱きしめること。
抱きしめられた心は、どんどん緩んで温かくなります。
自分の印象や表情を、一番知らないのは自分。
それだけに、意識して自分で笑顔を心がけること、自分から笑顔を向けることは、自分も相手も皆を幸せにすることなのです。

おわりに・・・笑顔のチカラ~幸せ5原則

幸せの連鎖
笑顔は必ず周りへ連鎖していきます。
自分の笑顔は、目の前の大切な人を笑顔にし、またその笑顔は隣の人の笑顔へ・・・。
まずは自分から笑顔になることで、どんどん周りの人たちへ幸せが広がっていきます。
幸せの余韻
相手に笑顔を向けることは、目の前の人の心をぎゅっと抱きしめることです。
また、会いたい。
また、話がしたい。
心をぎゅっと抱きしめると、そんな幸せな余韻を残すことができるのです。
幸せの記憶
笑顔で過ごした記憶は、いつまでも自分の心の中に、幸せな記憶として残ります。
たとえ辛いことがあっても、笑顔を忘れずにいれば、その記憶は後々振り返った時には幸せの記憶として、思い出すことができます。
幸せのおすそわけ
笑顔で過ごした幸せの記憶は、自分の自信となります。
自分に自信を持ち、自分の事を認め好きになると、その余った幸せは人におすそわけができるようになります。
幸せに生きる
笑顔で毎日を過ごし、自分の周りもみんな笑顔でいてくれること。
これは、何よりも自分の生きる力になります。
そして幸せの記憶は、辛い、苦しい、悲しいといった出来事が降りかかってきた時、それを乗り越える糧となります。

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